第100回 Sさんのメモ

以前の職場でのこと。中国から仕事のため来日したばかりのSさんという同僚がいました。彼は日本語が一言もできませんでしたが、人に頼らず、自分のことは自分で解決しようとする人でした。銀行に行くにも、「送金したいからメモに『日本円を中国に送金したい』って書いてくれる?」と言い、一人で大丈夫?心配だからついて行こうか?と言っても、「いやいや、メモに書いてもらえば自分でなんでもできるから」と、何にでも果敢にチャレンジしようとします。(案の定あとで、手数料のこととか、何日で届くとかいう会話が通じなくて電話がかかってくるのだけど)

 

あるとき、髪の毛を切りたいのでメモに「髪を切ってください」と書いてほしいと頼まれました。

「髪を切るって言っても、どういうふうに切るとか、長さはどのくらい切るとか書かないと、きっと切る人が困るよ」

「『切ってください』って書けば普通は分かるだろう?適当でいいんだよ、短くしてくれれば」

「日本では、どういう髪型にするか、長さはどうするのか細かく聞かれるものなのよ…じゃあ、そのままの形で2CMくらい切ればいいって書いておくね。あとシャンプーするかしないか聞かれる店もあるかもしれない」

「全く、日本は細かい国だなぁ~。」

ぶつぶつ言いながらSさんはメモを握り締めて出かけて行きました。翌日、さっぱりした頭のSさんは機嫌が悪く…

「昨日髪切ったら、5,000円もかかったよ!」

どうやら理髪店ではなく会社近くの美容院に行ったようで、予想外の金額にかなりご立腹なのでした。

 

そしてまたあるとき、Sさんは私に

「服にアイロンをかけたいんだけど、クリーニング店でアイロンかけてくれるよね。洗濯はいらなくて、アイロンだけかけてほしいんだ。またメモに書いてくれる?」

と言いました。近くで話を聞いていたほかの中国人が、

「ここはお前の田舎とは違うからなぁ、アイロンだけをかけてはくれないぞ。それに日本はクリーニング一つでも、いろんなサービスがあるから、服を出すときはいろいろ複雑な会話をしないといけないぞ~」

と、彼をおどしましたが、彼はめげずに

「まぁとにかく行ってみるわ」

「アイロンだけかけてください」と書かれたメモを握って出かけて行きました。結局そのときはアイロンだけをかけてもらうということはできなくて、服をクリーニングに出すことになったのだけど、その後もSさんはメモを頼りに買い物をしたり、印鑑を作ったり、郵便を出したり、公的機関で手続きをしたりしました。どんなに面倒なことでも、私や他の中国人の同僚についてきてほしいとは言いません。カレールーを買いに行って、シチューのルーを買ってきたり、印鑑が希望のものと違う素材で仕上がってきたり、手続きの紙を間違ってもらってきたり、領収証に会社名ではなく、自分の名前を書かれてしまったりしたこともありましたが、「今度は間違えないようにするぞ!」と、全然気にする風でもありません。私はSさんをとても勇敢だと思いました。

 

そして、自分でなんでもやるSさんは、言葉は通じないものの日本人の知り合いがとても多いのです。Sさん宅の近所のスーパーでも、会社の近くのお店でも、お店のひとがSさんを見かけると挨拶します。いつもメモを頼りに会話(筆談)をするので、相手もSさんを覚えているのです。Sさんのような人はどんな国に行ってもやっていける人だと思います。言葉ができないと、出かけたり、人と交流したりするのがおっくうになってしまう人が多いと思うのですが、彼はそんなことはありません。バイタリティに溢れ、不自由ながらも日本での生活を楽しんでいるように思えます。

 

Sさんが日本に来て驚いたことは、日本人はエレベータや地下鉄に乗るときに、譲り合って乗ること。乗ったら自分の身体や荷物が人の身体に当たらないように、細心の注意をはらっていること。また、車を運転していて、道を渡る人がいるとき、その人が渡り終わるまで停車して待っていると、お辞儀をする人がいること(最初は何をしているのかわからなかったそうですが、車を止めてくれてありがとうの意味だと言うと非常に驚いていた)だそうです。毎日新しい発見があるよと話してくれる彼は今、日本語を覚えようとしていますが、こういう人はきっと上達が早いでしょう。Sさんがメモはいらないよ、という日がいつか来るかもしれないと期待しています。